カテゴリ:あゆみめも( 7 )
あゆみめも
なぜ「走る」ではなく「歩く」なのか
歩行とBPM
複数人一役
アイデア一点突破型創作法
人間が一生に歩く距離
タイムライン


*この文章は作・演出:柴幸男の個人ブログ「cassette conte」の記事を再編集したものです。
[PR]
by toi-zuqnz | 2009-04-16 14:25 | あゆみめも
タイムライン
ライン=線、とは点と点の距離である。
つまり時間は距離によって表すことができる。
時計は針が進んだ距離で時間を表す。
一定の速度で進む物体の時間は進んだ距離でわかる。おはじきだ。
「あゆみ」は舞台上を歩き続ける。
その方向を制御する。
すると舞台上に正の方向が発生する。反対側はもちろん負の方向。
さらには、その方向に歩き続ければ現在、走れば未来、戻れば過去というルールが自ずと出来上がる。
この効果を利用すれば時間軸を操ることができる。
しかもワープの感覚ではなく、タイムライン=道を行き来する感覚で、である。
この感覚は、多くのタイムトラベルが与えるパラレルワールド的なそれとは違う。
過去も未来もそれほど遠くは感じない。
それらはかつて通った道であるし、これから通る道でしかない。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:28 | あゆみめも
人間が一生に歩く距離
人が一生に歩く距離を試算してみる。
一日平均5キロを歩き、寿命は80年とする。
5×365×80=146000km=地球3周半ほど
歩くというパーソナルな行為が、地球レベルの距離に到達するというマジックである。
でもやっぱり多くの人間は生まれ育った場所からあまり離れない。
長大な距離を進んでいるはずなのに、ほとんど移動しない。
この矛盾にどんな感想を抱くかは人それぞれだろう。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:28 | あゆみめも
複数人一役
私がこの方法に魅力を感じているのはある仮説があるからだ。
それは「ノンフィクション(俳優、の身体、の声、自身)に依存せずにフィクション(劇中人物)を立ち上げることができるのではないか」である。
かつての演技は「俳優(100%)=劇中人物(100%)」、つまり「なりきること」を目指した。
それに異を唱えた現代演劇の演技スタイルは「俳優(X%)+劇中人物(Y%)=100%」ではないか。
つまり俳優自身の存在をある程度認めた上で現実を削りつつ虚構を足していく。
例えば「俳優(50%)+劇中人物(50%)=100%」とか。
ではここに複数人一役をぶち込んでみる。するとこんな計算ができる。
「俳優(80%)+劇中人物(20%)=100%」×5人→登場人物(100%)
もちろんこの後ろには「+俳優(400%)」がくっつくわけだが。
しかし5人で演じることによって平均20%という非常に弱いレベルで100%のキャラクターを創造することができるのだ。
どの役者にも定着しない、透明の幽霊みたいな、だけど確実に存在する、そんなフィクションを立ち上げる。
もしそれが可能だったら、想像しただけでゾクゾクするのである。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:27 | あゆみめも
アイデア一点突破型創作法
なぜ、あるアイデアを突き詰めて作品を作ろうとしているのか。
「歩く」という方法を大きな物語の最も効果的な場所で使えば良いのではないか。
それは、ストーリーではなくプロットに興味があるからだ。
ここで言う「プロット」とは物語が持つ構造、図形、模様、のようなものを指す。
井上ひさし氏が言うところの知恵ある仕掛け。
ストーリーが表面化して展開するものならプロットは潜在的に点と線を紡ぐ。そして何かを形作る。
以前は否定的だったストーリー飽和論に現在はやや賛成だ。
もうパターンは出尽くしたのかも知れない。
しかし悲観はしない。むしろ優れたストーリーを上手く使えばいい。
そのかわり、新しいプロットの発明こそが劇作家にとって必要だと思う。
プロットをどうやって考えるかは人それぞれだろう。
いきなり完成図が浮かぶかもしれないし、稽古場で偶然出来上がるかも知れない。
見たことのないストーリーを作ろうという努力が結果、新しいプロットを発明することもある。
そこで私はあるアイデア・不確定な図形をとことん突き詰めてみることにした。
ストーリーは放棄する。というよりかは常にプロットに先行させる。
本来、ストーリーの後を静かに追いかけるプロットに物語を紡がせる。
そこから今までになかった物語を立ち上げようというたくらみである。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:27 | あゆみめも
歩行とBPM
音楽PVに歩きながら歌う映像が多いのはBPMに関係がある。
歩行に音楽のテンポを合わせればそれだけで楽曲とマッチした映像が出来上がる。
その映像はダンスほど強い主張を持たず、潜在的に我々の音感を刺激する。
ダンスが「特権的肉体」ならば、歩行は「日常的肉体」に訴えかける。
真似できないダンスには魅了され、誰でもできる歩行には手触りを感じるのだ。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:26 | あゆみめも
なぜ「走る」ではなく「歩く」なのか
歩く、にはさりげなさがある。けなげさもある。
走る、は少々押しつけがましい感じがする。
走り続けることは個人の能力に左右される。歩き続けることは万人に可能だ。
「歩く」ことは「走る」ことよりも馴染みが深い。
だからこそ歩くという行為について考える機会はすくない。
今までで一番楽しかった日も、今までで一番悲しかった日も、どこかで一歩は歩いたはずだ。
それはいつもの一歩とは違うのだろうか、それとも同じなのだろうか。
同じ角度で同じ場所に足を置けば、その感情はよみがえるのだろうか。
[PR]
by toi-zuqnz | 2008-04-16 14:26 | あゆみめも